今週のお題「何して遊んだ?」
幼少期、まだおおらかな時代
空き地とか公園とかあったけど、家の前の道路で遊ぶことが多かった
民家の立ち並ぶ一方通行の道
車が滅多に通る場所ではないからか
ボール投げたり、ゴム飛びしたり、道路に絵を書いたり
昭和の定番の遊び
向かいの家の塀にボールぶつけても怒られなかったし、小石が車に当たったくらいじゃ文句言われたりしない
そう言えば、父親の車の天井(ルーフっていうのかな?)によじ登って日向ぼっこしてたっけ。見つかるたびに怒られてたけど、気持ちよかったな
車が来たら傍に退けばいい
今じゃ考えられないよね
道路で子供が遊んでたら、たとえ車が来ない道であったとしても、危ない、うるさい言われてしまう
公園でも許可されたところでしかボール遊びはできないし、シャボン玉するのも気を使う
迷惑だって思う人の気持ちは理解できるけど、それで子供の遊びが制限されるのもなんか違うなぁって思ったり
あの頃の大人は生きるのに必死だったから、細かなことは“仕方ない”で済ませれたって事なんだろうな
だって、こんなにピカピカの車が当たり前なんて国、レアケースなんじゃないのかな?
そんなにたくさん海外に行ったわけではないけれど。
こんなふうに思い返すと、遊んだ思い出はそれなりに出てくる
けど、楽しかったのか?
と、問われると…どうなんだろう?
ただ、時間を潰してただけで、『楽しい』と、感じたのはほんの僅か。
子供なんて1人でも上手に遊べるから、この感覚は普通なのか?
“友達と遊びたい”と思うのは“楽しいから”?
…私は“友達”と遊んでても無邪気に楽しかったのかな?
過去を振り返ると、辛い記憶の方が出てきてしまう
生き物として、それは自然なことなんだけど
無邪気に“楽しい”と思っていたはずの記憶まで
“実は…”なーんてつい不幸探ししたくなる自分を“何だかなぁ…”って感じてしまって
子供は上手に自分を誤魔化せてしまう
だから、振り返ると“実際に感じていた感情”がわからなくなる
あれはあれで、無理しないで本当に楽しかったのかな?
そっか
そんなこともわからないから、大人になった自分は楽しむのが下手なんだな
何も考えずに遊べるようになったら、もっと生きるのが楽になるんだろうな
よし、少なくとも、自分を嫌いになるようなことはしないようにしていこう