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連日報道されるウクライナの映像
本当に、本物の戦争
国が国を攻撃している
リアルに、今、起きている事
祖母が生きていたら、何を思ったのだろう?
大正生まれの祖母は、つい半年前の夏の終わりに、103歳の誕生日を迎える前に、その長寿を終えた
戦争
祖母は4人兄弟の第一子として生まれた。
地方ではあったが、庄屋の生まれで、とても美しい人だった。(写真を見るとびっくりするくらい美人)
都市部にあった祖父の家に嫁ぎ、戦火の中2人の子供(私の父と伯母)を育てた。戦争が終わってすぐ、父の妹を出産
戦後の大変な時期に3人の子供を育てたことになる
祖母の2人の弟は戦争に行き、戻ってこなかった
祖母と祖母の妹は都市部で結婚したため、爆撃を実際に体験していた
嫁ぎ先
祖父は養子だった
昔ではよくあること
子供のいないソコソコの家に、墓を守る為に兄弟の多い家からもらわれた子。
そして、祖母はその養子の妻となった
結果、とても酷い扱いを受けたらしい
例外もあるだろうが、…まぁ、養子の嫁なんて可愛く思えないんだろうね。実子の嫁でも可愛く思えない例が多いもんね。
祖父は兵隊に取られ(あえてこの表現を使わせて下さい)、台湾?その辺りに行って不在だった
空襲
嫁ぎ先は、工場も沢山ある下町
必然的に空襲が多かったという
(小学生の頃、市内を流れる川は空襲の炎から逃れる人の血で真っ赤に染まったのだと、授業で習ったほど)
同居していた長屋の下には、防空壕が掘られていた
大人2人しか入れない、手作りの小さな防空壕
サイレンが鳴ると舅姑の2人がさっさと入り
「お前は外の防空壕に行け」
と、祖母と子供(舅姑の血の繋がらない孫)を追い出した
当時、まだ赤ん坊だった父を抱き、まだ2歳くらいの伯母の手をとり、祖母は入れてくれそうな防空壕を探す
サイレンが鳴る中、どれだけ怖かっただろう
やっと空いてる防空壕を見つけても、あと1人しか入れないと言われ、2歳の伯母に言い聞かせ、1人置いて外に出る。
どれだけ身を引き裂かれる思いだっただろう。まだ幼い伯母を1人防空壕に残していかなければならなかった祖母。生きて会えるだろうか?けど生き残るために、置いていかなければならない。
自分に置き換える。私の子は当時の伯母より大きいが、それでも戦火の中、生き残るためにバラバラに避難しなければならない。そんな決断したく無い。考えるだけで悲しくなる。
そして、ようやく見つけた防空壕に赤ん坊の父と入る
爆撃機が飛び去るのを、ひたすら赤ん坊を抱きしめながら待ち続けた祖母
どれだけ怖くて、どれだけ不安で、どれだけ心配だったか
祖母の涙
この話を聞いたのはわりと最近(5年くらい?)です
祖母が100歳に近づき、少し痴呆が入るようになってきた頃
ポロポロと涙を流しながら話していました
聞いたのは1度だけ
まぁ、主訴は
“自分の子育てはこんなに大変だった”
という苦労話。つまるところ“はむぷたは我慢が足りない“という“責め”なのですが(ー ー;)
(まぁ、この時も色々あったのです。私の原家族は最後の最後まで酷い形でした。それは今も大きな爪痕を残しています)
確かに、夫のいない嫁ぎ先で、近所に知る人がおらず、意地悪な舅姑にこき使われ、しかも戦争中での育児。ほぼワンオペだったろうと思うし、頼る人も味方もいなかったでしょう。
祖母が私を羨ましがるのはとてもよくわかります。
言葉にできるという事
祖母は、100歳に近づき、痴呆が入りかけて、ようやく言葉にできるようになったのでしょう
それも(私には)1回きりでしたが
それほどの辛い、苦しい出来事。戦争は、人を常に死と隣り合わせにおき、深い深い恐怖を植え付ける。人の闇を露わにする。重い重いあってはいけない事
思い返したくも無い、言葉にするのが辛い記憶
実際、戦地に赴いた祖父の口からは、戦争の話は一度も出てきませんでした
戦中の子育て
防空壕に伯母を残す時、ポケットに小豆を何粒か入れたという。それをどうしてもお腹が空いたら食べなさいと。
伯母は1人ポリポリと食べてやり過ごしていたらしい。
幸い、祖母と父の入った防空壕も、伯母が残された防空壕も爆撃されず、生き残り、再会できた
どれだけ祖母はホッとしただろう。ある日突然、大切な人が死んでしまう時代。どれだけ自分の置かれている状況を恨んだか
たった一度しか聞かなかった話なのに、私の心に深く刻み込まれている
自分が親になったからだろう
当時の祖母の、母として子を守り、生きていかねばならなかった状況を思うと涙が出る
平和
祖母は会うたびに
「今の子達はいい」
「私も今生まれたかった」
と、私を羨ましがった
祖母は好奇心が強かった
行った海外は、アメリカ、エジプト、フランス、ドイツ、南米…私が知ってるだけで、こんなに行ってる
80を超えてメールを使いこなし
英語を習いたいとアルファベットを学んでいたのは90才手前
「今の時代に生まれたかった」
そう、ずっと言い続けて半年前に生涯を終えた祖母
今また、戦争が起こってしまった
平和って、こんなに簡単に崩れ去るんだ
祖母の話が蘇る
早く戦争が終わりますように
追記
戦後も祖母の苦労は無くなりませんでした
風呂敷いっぱいのカボチャや芋を手に入れるために、丸一日かけて遠出して頭を下げて集めていたと言っていました
戦争が終わって、それで終わりではありません
本当に、1日でも早く戦争が終わりますように